永正年間(1504〜1520年)に戦国大名今川氏親の支城として重臣飯尾乗連が築城し、曳馬(引馬)城と称したのが起源といわれ、永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると松平元康(後の徳川家康)は今川家を離反して岡崎城に戻り独立する。その後、旧今川領に侵攻を開始して曳馬城を落とした。
元亀元年(1570年)、家康はそれまでの居城であった岡崎城を長子信康に譲り、この曳馬城に入城する。
元亀三年(1572年)西上を開始した武田信玄は、二俣城をはじめとする遠州諸城を落とし、浜松城にせまったが、信玄は浜松城が堅固な守りであることを知ると、これを無視するかのように西に進軍。
怒った家康は「もはや庭先を踏みつけられて見過ごすは弓矢をとる者の恥だ。」として織田信長の援軍三千を加えた一万一千の軍勢を率いて城から出撃。
武田軍二万五千と正面からぶつかるが、散々たる負け戦となりわずか十数人の旗本に守られて浜松城に逃げ帰った。
この時、城内の守備にあたっていた酒井忠次は城門を開き、大篝火を焚かせ、大太鼓を連打したため、追撃してきた武田軍はいかなる奇計があるかと疑い、攻めるのを諦めたとされる。
天正五年(1577年)、家康は本多作左衛門重次を奉行として、三河・遠江の大名の居城としてふさわしい城造りに着手。
曳馬城域の高台に大規模な城を築く(これが現在の浜松城の原型)以後、天正十四年(1586年)に駿府に移るまで家康の本拠地となる。
家康の関東移封後は堀尾吉晴が城主となるが、子の忠氏の時に関が原の戦いが起き、西軍に付いたため松江に移封。
代わって松平忠頼が入り、その後は水野、高力、松平、太田、青山、松平、井上と譜代大名が城主となって明治を迎えた。
浜松城は家康飛躍の城という意味から俗に「出世城」と呼ばれ、幕府の重職につくためには浜松城主となる事が登龍門とされた。
浜松城は、若き日の家康が28〜44才まで住んでいた城で、織田信長や豊臣秀吉の様子をうかがいながら三河、遠江、駿河を攻略しており天下人になるための土台を築いたことで、出世城とも呼ばれています。
野面積の石垣が特徴で、自然の石を加工せずにそのまま積み上げてた石垣がみごとに残っております。
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